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残された朝食
3,554文字
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冷え切った8畳部屋の片隅で、水野遥は喪服の裾を握りしめたまま、膝を抱えていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、脱ぎ散らかされたパンプスと、静まり返った台所を鈍く照らしていた。
葬儀のざわめきも、親族が漏らす形式ばかりの悔やみの言葉も、遥の耳には残らなかった。
胸の奥には鉛を流し込まれたような冷たい空白が広がり、涙の一滴すら滲んでこない。
相楽蒼太が死んだ。
トラックに跳ね飛ばされ、病院へ運ばれる間もなく息を引き取ったという。昨日の夕方に警察から知らされてから今に至るまで、遥の神経は分厚い硝子の向こう側にあるように麻痺していた。
「うそ…」
小さく零した声は、誰の耳にも届かず床に吸い込まれた。
見回せば、どこを切り取っても蒼太の息遣いが残っている。
脱ぎっぱなしにされた部屋着のパーカー。蒼太が育てたいたポトスの鉢植え。
玄関のスニーカー。
すべてが、つい昨日の朝まで彼が生きていたことを証明していた。
昨日の朝。
その記憶を思い出すだけで、遥は頭が痛くなった。
時計の針は午前7時40分を指していた。
仕事で大きな案件を抱えていた遥は、企画書の度重なる修正で連夜の残業が続き、神経を極限まですり減らしていた。
洗面台の鏡を睨みつけ、慣れた手付きでアイラインを引いていた遥の背中に、台所から蒼太の声が掛かった。
「遥、朝ごはんできてるよ。実家から送ってもらったお米、炊いたから」
エプロンをつけた彼が、少し垂れ下がった優しい目を細めて覗き込んでいた。
その穏やかな佇まいが、その時の遥には耐え難かった。
「いらない」
遥は鏡から目を逸らさず、冷たく言い放った。
「時間ないの。見ればわかるでしょ」
「でも、昨日も夜遅かったし……少しだけでも口に入れたら」
「だから、いらないって言ってるじゃない! 蒼太はいいよね、時間に追われない仕事でのんびりしててさ」
遥の言葉に、蒼太の表情が一瞬だけ強張った。
強張った表情を隠すようにして、彼はいつもの笑みを浮かべ、ぽつりと小さく「…ごめん」と呟いた。
「ラップして冷蔵庫に入れとくね」
と彼が言った言葉。
それが、最後だった。
乱暴に靴を履き、背後を一度も振り返らずにドアを叩きつけた。
彼がどんな顔をして見送っていたのか、確かめようともしなかった。『いつでも謝れる』『どうせ明日も明後日も、彼はここにいる』
そんな傲慢さに甘えていたのかもしれない。
いや、そんな事すら考えられていなかった。
遥は身を起こし、ふらつく足取りで彼の書斎机へと歩み寄った。
警察から返されたビニール袋の中に、茶色い革表紙のノートがあった。付き合い始めた頃、遥が「これ、表紙のデザインもおしゃれで、紙も厚手で書きやすいの」と贈った、無地のスケッチノートだった。使い込まれた革の端は毛羽立ち、濃い飴色に変わっている。
引き寄せられるようにして、遥は机の上の小さなスタンドライトを灯し、表紙をめくった。
一ページ目には、見慣れた文字と写真があった。
『2021年 4月 晴れ
遥と初めて遠出した日。夜風が冷たくて、二人で自販機で飲み物を飲んだ。僕は缶コーヒー、遥はりんごジュース。遥は「海が見たい」って言ったくせに、寒がってすぐ車に戻った。あの時、遥の手を初めて繋いだ。すごく小さくて可愛かった』
写真の中の遥は、寒そうにマフラーに顔を埋めながら、はにかんだように笑っていた。
ページをめくるごとに、二人が重ねてきた月日が鮮やかに思い出させる。
階段の下にある喫茶店で、山盛りの生クリームプリンを前に目を輝かせる遥。
紅葉の散る並木道で、落ち葉を拾い上げて見せる遥。
雨宿りをした神社の軒下で、濡れた髪を気にしながら彼と二人で笑い合った瞬間。
けれど、ノートの半ばを過ぎたあたりから、写真の構図が一変していた。
写っているのは、同じ場所だった。
あの夜の港、レンガ造りの喫茶店、並木道、神社の軒下。
だが、そこに遥の姿はどこにもなかった。
一人分の珈琲カップ。誰も座っていない助手席。濡れた石段に落ちる、彼ひとりの影。
添えられた日付は、すべてここ数ヶ月以内のものだった。
『2026年 8月 あの港へもう一度
遥は今週末も休日出勤。すごく頑張ってる。遥はすごい。一人で海を見に来た。風はぬるくて、遥の手の温もりを思い出した。また二人で来たい。今度は、温かい紅茶を水筒に入れて持ってこよう。』
『2026年 9月 喫茶店
一人でプリンを食べた。やっぱり遥と食べる方が美味しい。最近、遥が疲れた顔をしている。話しかけても、すぐに苛立たせてしまう。どうしたらいいのかわからない。僕にできることは、遥がいつ帰ってきてもきれいな部屋でごはんを食べられるようにすることぐらい。』
文字を追う遥の指先が、激しく震え始めた。
彼女が仕事の忙しさを理由に週末の誘いを断り、一人で部屋に閉じこもっていた日。彼を冷たくあしらい、背中を向け続けていた日々。蒼太はその理由を遥に問い詰めて責め立てることなどせず、一人で二人の思い出を辿っていたんだ。
すれ違い、離れかけていた心を、彼は一人きりで必死に結び直そうとしていた。
最後のページには、写真がなかった。
四角く空いた白い余白の上に、彼が事故に遭った当日の日付と、途切れた筆跡が残されていた。
『2026年 10月23日
遥が昔、綺麗だと言っていた高台の展望台へ向かう。夕焼けに間に合うといいな。
遥の誕生日まで、あと一ヶ月。
このノートを全部埋めて、昔の写真と今の写真を並べてプレゼントしよう。
「僕たちはこんなにたくさんの場所を歩いてきたんだから、これからも大丈夫だよ」って、ちゃんと言葉にして伝えよう。
遥、いつもありがとう。』
文字は、そこで終わっていた。
彼が最期に向かっていたのは、あの場所だった。遥の誕生日を祝い、もう一度二人で笑い合うための、約束の場所だったのだ。
息ができなかった。
遥はノートを胸に押し当て、床に崩れ落ちた。
後悔が、胸の奥に残酷なほどに突き刺さる。
どれほど愛されていたのか。どれほど無償の優しさに包まれていたのか。それをすべて踏みにじり、突き放したのは自分自身だった。
「ごめんなさい」とつぶやいても
静まり返った部屋からは何も返ってこない。
彼の手を握り返すことも、その髪に触れることも、二度と叶わない。
そのとき、ふと、昨朝の彼の言葉が耳奥に蘇った。
じゃあ、ラップして冷蔵庫に入れとくね。
遥はふっと顔を上げ、台所へ向かった。
震える手で冷蔵庫の取っ手を引く。
冷気とともに、薄暗い冷蔵庫内に明かりが灯った。
二段目のトレイの中央に、それは置かれていた。
白い平らな皿の上に、透明なラップがぴんと張られている。包まれていたのは、少し形の歪な二つのおにぎりと、薄く焦げ目のついた厚焼き卵、それにきんぴらごぼうの小鉢だった。
ラップの表面に、見慣れた丸い文字の黄色い付箋が貼られている。
『遥へ
時間があったらチンして食べてね。
今日も無理しすぎないように。
蒼太』
遥は皿を取り出し、電子レンジに押し込んだ。
震える指であたためボタンを押す。低く唸る回転音の向こうで、オレンジ色の光に照らされた皿がゆっくりと回り始めた。
ピー、ピー、ピー、と無機質な完了音が部屋に響く。
扉を開けた瞬間、熱を帯びた白い蒸気がふわりと立ち上り、遥の頬を打った。
出汁の香り、米の甘い匂い、ごま油と醤油の香ばしさ。それは紛れもなくいつもの蒼太の作るご飯だった。
ラップを剥がすと、熱い水滴が指を濡らした。
遥はおにぎりを素手で掴み取った。掌を焼くような熱さも構わず、口元へ運び、大きく一口を噛み締める。
中からこぼれ出たのは、遥が昔「一番好き」だと呟いた、鮭フレークだった。
噛み締めるほどに、優しい塩気と米の甘みが口いっぱいに広がる。
「…おいしい」
呟いた途端、ダムが決壊したように熱い雫が両目から溢れ出した。
涙が顎を伝い、唇を濡らし、おにぎりの上へとボタボタと零れ落ちていく。
喉が詰まり、息が詰まる。それでも遥は、水で流し込み二口目を頬張った。
噛むたびに、彼の笑顔が浮かぶ。「美味しい?」と覗き込んできた少し垂れた目。遥が不機嫌そうに溜息をついたとき、寂しそうに伏せられた睫毛。
厚焼き卵を口に放り込む。少し砂糖が多くて甘い、いつもの蒼太の味だ。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、喉の奥を張り裂けさせながら、全て胃に流し込んだ。
空になった皿を見て、遥はしゃがみ込み、額を冷たい床に押し当てた。
声も出なかった。
もう二度と感謝も謝罪も届かない後悔に押しつぶされていた。
その場でいつの間にか眠っていた。
やがて夜が明け、差し込んできた朝日で遥は目を覚ました。一晩床にいたせいで身体のあちこちが痛んでいる。
遥は立ち上がり、腫れた目を冷たい水で流し、彼が遺した革表紙のノートとカメラを手に取り、彼が辿った思い出の地を巡る旅に出ることにした。
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