SF・ファンタジー

『スズキの異世界転生』

1,742文字 約4分で読了
作者:さくら
急ブレーキの音が響いた。金属が軋むような悲鳴が、夜の通りに広がった。 次の瞬間、鈍い衝突音。遠くで誰かが叫び、タイヤの焦げた匂いが風に混じった。 やがて、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。 ……そこまでしか、覚えていない。気がつくと、私は見知らぬ場所にいた。 柔らかな陽の光が差し込み、草の匂いがする。地面は柔らかく、土の温もりが掌に伝わってきた。空は驚くほど青く、空気は澄み切っていた。舗装された道も、ビルの影もない。 ――ここは、どこだ? 体を起こした瞬間、違和感を覚えた。手足の感触が、どこか違う。自分の体ではないような感覚。 鏡がないのに、顔が違うとわかる。皮膚の下に流れる鼓動が、まるで別の誰かのもののようだった。 私は、自分の名前を思い出そうとした。しかし、何も出てこない。記憶が霞のように散っていく。 交通事故。その言葉だけが、ぼんやりと頭の中に残っていた。 誰かが声をかけてきた。穏やかな顔をした青年だった。心配そうに私を覗き込み、「名前は?」と尋ねてきた。 口を開こうとすると、自然に言葉がこぼれた。 「……スズキ」 自分でも驚いた。なぜその名前が出たのか分からない。 彼はうなずき、「スズキさん」と私を呼んだ。 この世界での生活は、とても心地よかった。何を食べても美味しく感じた。日差しは穏やかで、風がやさしく頬を撫でた。近くの子どもたちと遊ぶ単純な遊びも、楽しくて仕方がなかった。 そうするうちに、少しずつ記憶が戻り始めた。 私は、食事をただのエネルギー補給だと思っていた。何を食べても味がしなかった。それが、当たり前の生活だった。 思い出すのは、仕事のことばかりだ。毎日、同じ時間に同じことを繰り返す。それが人生だと思っていた。 けれど、それは「生きている」と呼べるものだったのだろうか。 私には、ひとりの相棒がいた。同じ職場で働いていた人だ。無口だが、優しい人だった。一緒にいる時間は悪くなかった。 ときどき、仕事の合間に小説を読んで、独り言のように呟いていた。 「また異世界転生ものか。最近、多いよな。まぁ、好きだからいいけど」 私はその話に興味を示さなかった。 けれど今になって、その言葉を思い出す。もしあの人が今の私を見たら、どう思うだろうか。 日々が静かに過ぎていった。 ここでの生活は穏やかで、心が静まるようだった。しかし、どこか物足りなさを感じるようになった。 夜、星空を見上げながら思う。 あの人に会いたい。もう一度、一緒に仕事がしたい。 そんな願いを抱いたある日、目の前の景色がゆっくりと溶けていった。 気づくと、真っ暗な空間にいた。 上下の感覚もない。そこに、柔らかくも力強い声が響いた。 「聞こえるか」 声の主は、自らを“神”と名乗った。私をこの世界に導いた存在だという。 神は静かに告げた。元いた世界の“私”は、まだ完全に消えていない。深い眠りの中にいるだけなのだ、と。 「選べ」 神は言った。 「元の世界に戻るか。この世界で生き続けるか」 私は考えた。この世界は穏やかで、満たされている。ここにいれば、平和なまま生きていける。 だが、その時、私の中で何かが弾けた。記憶が一気に流れ込んできたのだ。 ――事故の瞬間。 私はひかれたのではなかった。ひきそうになったのだ。 歩道から飛び出した人影。ブレーキが踏み込まれる。 相棒の声が、すぐそばで響いた。トラックは壁にぶつかり、私は意識を失った。 相棒は怪我をしたが、命に別状はなかった。もうすぐ仕事にも復帰するらしい。私が目を覚ませば、また一緒に働ける。 私は静かに、しかし確かに神に言った。 「戻ります」 神は何も言わず、ただうなずいた。闇が白く光り始め、世界が遠ざかっていく。 元の世界に戻った私は、以前と同じように相棒と仕事をしている。 事故のあの日から、相棒は以前より慎重になった。ハンドルを握る手つきも、どこか丁寧だ。 昼になり、いつものガソリンスタンドで食事をとる。私は燃料でお腹を満たし、相棒はコーヒーを飲む。 洗車を終えたばかりの私は、白いボディを太陽にきらめかせている。エンブレムの“SUZUKI”の文字が、まぶしく光っていた。 エンジンの鼓動が心臓のように響く。 相棒と荷物を乗せて、アスファルトの上を滑るように進みながら、私は思う。 ――今日も、よい走りができそうだ。
2026/10/16 ・ 👁️ 27回 ・ 💬 3件

\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ

ごみがき
冒頭の3行が見える仕様になっているので、車の描写がそこで見えてしまったことで私はスズキ=車のメイカーだと予測してしまいました…。
作風(?)が私と通ずる部分があると感じたので、私の性格だから読めてしまったのもあるのかもしれません。

私もタイトルつけるのめちゃ悩みます…。

これからも楽しみにしてます!
さくら
コメントありがとうございます。
タイトルをもっと工夫したほうが良かったかなぁ?
ごみがき
タイトルでオチを予測できてしまいましたが…はおです!
0 / 1000文字