コメディ・日常
いちご一粒ぶんの器
1,560文字
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白窯町の坂道には、焼き上がった陶器を並べる木棚が続いていた。白や淡い青の器が朝の光を受け、坂の上の窯元からは、薪を焚く匂いが漂っていた。
奈緒は仕事用の鞄を肩に掛け直し、窯元の店先で足を止めた。
棚の隅に、小さな器がひとつ置かれていた。親指ほどの高さしかなく、口の縁がわずかに傾いている。白い釉薬の表面には、光の加減で淡い陰影が浮かんでいた。
「それ、売り物じゃないんです」
工房から出てきた若い職人が言った。
「かわいいのに」
「形が揃わなくて。何に使うかも決めてないんです」
奈緒は器を手のひらに載せた。料理撮影の仕事では、皿を選ぶにも理由がいる。料理の色が映えるか、形が盛りつけの邪魔をしないか、照明を当てたときにどんな陰影が生まれるか。いつもそんなことを考えている。
けれど、この器には何を盛ればいいのだろう。
指先で傾いた縁をなぞっているうちに、ふと、赤いいちごの姿が浮かんだ。
「いちご、一粒とか?」
職人は器をのぞき込み、うなずいた。
「へたを取らずに置いたら、ちょうど収まりそうだ」
奈緒はその器を買った。
坂を下りると、角に小さな茶店があった。仕事でこの町を訪れたときには、ときどき立ち寄る店だった。奈緒は休憩がてら暖簾をくぐった。
店主が、湯気の立つ急須を手に顔を上げた。
「おや、いらっしゃい。今日はずいぶん大事そうな包みを持ってるね」
「さっき、窯元で買ったんです。ちょっと見てもらえますか」
包みを開いて器を見せると、店主は手を拭き、そっと両手で受け取った。
「まあ、小さいこと。何を載せるつもりなの?」
「いちごを一粒、と思ったんです。でも、ほかにも合うものがあるのかなって」
店主は器を窓辺の光にかざし、傾いた縁を眺めた。
「それなら、今日はこれを載せてみようかね」
奥から持ってきたのは、小ぶりの黒糖蒸し菓子だった。
白い器に、淡い飴色の菓子がひとつ収まった。傾いた縁のために、菓子はほんの少し中心からずれている。それでも、まるで初めからそこに置かれるために作られたように、器によく馴染んでいた。
「大きなお皿だと、ほかにも何か足したくなるでしょう。でも、これなら一つをゆっくり味わえそうだね」
店主はそう言って、奈緒の前に温かいお茶を置いた。
奈緒は菓子をひと口かじった。黒糖のまろやかな甘みが広がり、お茶の温かさが喉を通っていく。
いつもの撮影なら、菓子の置き方を直し、器との色の取り合わせを確かめ、光の向きを何度も調整するだろう。写真の中でいちばんおいしそうに見える瞬間を探すのが、彼女の仕事だった。
けれど今は、カメラも構図も照明もない。
奈緒はお茶をひと口飲み、菓子をもうひと口かじった。甘みがゆっくり消えていくのを感じながら、残りのひとかけらをしばらく眺めた。
「なくなるのが、ちょっと惜しいですね」
店主は目尻にしわを寄せた。
「おいしいものは、そうやって食べるのがいいんだよ」
奈緒は笑い、最後のひとかけらを口に運んだ。
東京に戻れば、次の撮影の献立が待っている。料理に合わせて皿を選び、配置を考え、照明を調整する。そんな仕事も嫌いではない。思いどおりの一枚が撮れたときには、今でもうれしくなる。
ただ、仕事で食べ物を選ぶことと、自分が食べたいものを選ぶことは、少し違うのかもしれなかった。
仕事では毎日のように食材を選んでいるのに、自分のためだけに何かを買うことは、いつの間にか少なくなっていた。
店を出ると、坂の上から窯を焚く煙が細く伸びていた。奈緒は器を包み直し、鞄の中にしまった。
帰ったら、いちごを一粒だけ買おう。
大きさの揃ったものを選ばなくてもいい。少し形が歪んでいても、へたが曲がっていてもかまわない。その一粒を、あの器に載せて食べてみたい。
そう考えると、帰り道が少し楽しみになった。
こんな買い物を楽しみにするのは、ずいぶん久しぶりだ。
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端的な描写で主人公は普段忙しく日々を過ごしながらも自身の職業に誇りを持っていることが見て取れ、だからこそ器との出会いも、和菓子との出会いも、丁寧に紡がれていることでラストの主人公の心持ちが爽やかに対比されていて、とても読み心地の良い物語だった、と思うことができました🌟