ホラー・怪談
端呑みの沼
3,392文字
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ああ、俺に見えているものは他人には見えていないんだ、そう実感したのは幼稚園の年中の頃だった。
祖父母の家、床の間に座っている、ひとりだけモノクロで色味がまるでなく、顔を塗りつぶされたような着物姿の老婆。それが俺が明確に、この世のものではないもの、と認識した存在だった。
祖母は俺に言った。ああいう連中と目を合わせてはいけない、見えていると知られてはいけないと。
時折、床の間を凝視する俺の幼い目を塞ぐ祖母の手からは、祖母が使う化粧品のにおいがした。
俺は今大学生で、学業の合間に居酒屋でバイトをしている。ビル街の、小さなテナントの居酒屋だ。店員用の通用口は薄暗い路地裏に面していて、ゴミやら排気口から吐き出される揚げ物のにおいでいつもなんとも言えないにおいが漂っている。
その日、店じまいで厨房に溜まったゴミを通用口からゴミ捨て場に出しに行った俺は違和感を覚えた。
いつもとにおいが違う。
揚げ物の油のにおいとも、ゴミのにおいとも違う異臭がした。
ただ、どこかで嗅いだことのあるにおいであることはわかる。ふと耳裏で記憶に刻まれた祖父の声がした。
「淳平、裏の山さ遊びに行くのはええ。だが山の麓の沼には近づいちゃなんねぇぞ。あそこの沼は深いんだ。淳平があんな沼さ入っちまったら、じいちゃんでは助けてやれんからな」
祖父母の家に遊びに行く度に言われた言葉だった。そして、小学三年生になった俺の手を引いた祖父が、連れて行ってくれたのは暗く澱んだ沼だった。
「いいか、淳平。沼には近づいちゃなんねぇ。沼はな、人を呑むんだ」
祖父の声が蘇った瞬間、異臭が強くなる。あの沼に連れて行かれた日も嗅いで、嫌な気分になった、泥と水が澱んで腐ったにおいだ。
店の裏でこんなにおいを嗅ぐのは初めてだった。
ふと、体が動かないことに気づく。ゴミ袋を握りしめた拳が開けない。暗い路地裏の影がまるでスニーカーの靴底に貼り付いたように足が地面から離れない。
かろうじて動くのは目玉だった。目玉だけを回して辺りを探る。泥と水の腐ったにおいがさらに強くなる。表通りの喧騒が遠い。ゴミ出しに出ただけの俺を呼びに来るバイト仲間もいない。
世界に俺だけが取り残されたようだった。
ずる、ぴちゃ、ずる、ぴちゃ。
湿った音がした。衣擦れと素足で歩く音。見えないのにはっきりとわかった。そして、これはきっと見えてはいけないものだということも、わかった。
ずる、ぴちゃ、ずる、ぴちゃ。
音が近づく。それに合わせて泥と水が腐ったにおいも近くなる。周囲の湿度が上がった気がした。
「あの人はどこ、あの人は、お腹にややがいるんです……」
女の細い声だった。か細いのに、まだ距離があるはずなのに耳元で話されているかのようにはっきり聞き取れた。
やや、赤ちゃんのことだろうか。誰かを探している。
頭の一部、やたら冷静な部分が状況を整理し始める。体は相変わらず動かない。湿った音は近い。腐ったにおいが肺を満たした。
少しだけ自分の左側、路地裏の奥の闇を覗いてみる。そこにはボロボロの着物を纏った乱れ髪の女がいた。肌は異様に白い。長い前髪がだらりと垂れ下がっているせいで顔は見えない。輪郭がはっきりしているんだか、曖昧なんだかうまく認識できない。
この世のものではない。
女は俺に気づいているのかいないのか、ただ濡れた着物を引き摺って歩いている。
「あの人はいませんか……あの人は……お腹のややの父親なんです……」
悲壮感の漂う声だった。言ってる内容はこんなにはっきり聞こえるのに、まるで磨りガラスの向こうの人影のような曖昧さがあった。
ふらり、ふらり、おぼつかない足取りで女は歩いている。
その胎にいるのであろう赤ちゃんを、くたびれた着物と青白い肌越しに撫でる手はずいぶん細い。
「あの人……あの人……あんた?」
茫洋としていた声を発していた女だったが、あんた、その三つの音だけがやたらはっきりと響いた。女が俺の真左の延長線上でぴたりと歩みを止める。長い髪で表情の半分も見えない顔が俺の方に傾いた。
女が俺を認識した瞬間だった。
女の頼りない歩みが、明確な意思を持ってそのつま先を俺に向けてくる。湿った音がほんの少しテンポを上げる。
やばい、やばい、やばい。
音が、腐ったにおいが近づく。
空気の圧が俺の体にのしかかる。
助けを求めたくても、俺の声帯はぴくりとも震えない。
唯一動かせるのは目、このまま女に俺が女のことを見ていると知られてはまずい。
咄嗟にそう判断した俺は、ぎりぎりと音を立てそうな勢いで両の瞼を閉じた。視界が暗くなる。すると、幼いあの日、祖父に連れられて見に行った沼のにおいよりもさらに濃い沼の臭気が俺の全身を包んだ。
女が、目の前に、いる。
女の震えるような息遣いを感じる。頬に湿った感触。これはきっと女の手のひらなのだろう。目で見ているわけではないのに、脳は勝手に大量の情報を拾い上げてそれをパズルのように組み合わせ、閉じた瞼の裏に決して見てはいけない光景を結んでいく。
もう片方の頬にも女の手が当てられた。冷たい。体温がない。
俺は閉じた瞼を、これ以上閉じようもないのにさらに強く強く閉じた。
その瞬間、腐り果てた沼のにおいの隙間から、懐かしいにおいがした。
祖母の化粧品のにおいだった。
「…………あの人じゃない」
女の怒りに満ちたような、悲哀で濡れたような声がして、頬から手のひらがずるりと滑り落ちた。
まだだ、まだ目は開けられない。女はまだ目の前にいるから。
俺がただひたすら耐えていると、最後に消え入りそうな声で、あの人じゃない、と繰り返して湿った気配とあの腐った沼のにおいが消えた。
助かった。
全身から力が抜けてその場にへたり込む。服の内側は冷や汗でびっしょり濡れていて気持ちが悪かった。
「淳平くーん、ゴミ捨てまだー?ん、どしたん、転けたか?立てる?」
呑気な元ラガーマンの店長がゴミ袋を握りしめて地面に座る俺を見て不思議そうに首を傾げる。俺は掠れ声で、大丈夫っす、と返すしかできなかった。
沼のにおいを纏った女に出会して二日経った。俺は今大学の図書館で地域史について調べている。どうやら俺のバイト先のあるあの辺りは、いわゆる私娼窟のあった場所らしい。端女郎が非合法の店で働いていたそうだ。そして、私娼窟の片隅にはさほど大きくはない沼があった。その沼には、病気で亡くなった女郎が投げ込まれたり、時には足抜けできずに男と心中するために身を投げる女郎がいたらしい。
端呑みの沼。
いつしかそう呼ばれるようになった沼は、その名すら忘れられ、埋められ、その上に建物が建った。
女たちの想いも恨みも全て飲み込んで、沼はまだあの土の下に、当時の記憶を自身の中に漂わせながらそこにあるのかもしれない。
「沼はな、人を呑むんだ」
祖父が繰り返し俺に言い聞かせたあの言葉は本当なのだろう。
地域史の資料を片付けて図書館を出た俺は、スマートフォンを取り出して、実家の母に電話をかけた。数回のコール音の後、聞き慣れたようで懐かしい母の声がした。
「ああ、お袋?あのさ、ばあちゃんに線香あげに行きたいんだけど、今度いつじいちゃんのとこ行く?お盆?じゃあ俺も行くわ……バイト?普段真面目にやってっから休めると思う。……それに、もしかしたら今のバイト先辞めるかもわからんし。……あーいや、こっちの話。んじゃお盆は帰るから、よろしくー」
一昨年亡くなった祖母は、俺がこの世のものではない何かを見てしまうことに一番最初に気づいた人だった。そして、訳もわからず、それらを見つめてしまう幼い俺の目をいつも塞いでくれたのだ。
だから、あの沼のにおいのする女が俺の近くに来た時も、祖母はきっと俺の目を塞いでいてくれたのだろう。
だって、あの化粧品のにおいは今でも忘れていないから。
祖母の好きそうな菓子を思い浮かべながら、俺は大学のキャンパスをゆっくりと歩く。
視界の端には、首が捻れた子供がけらけら笑いながら走っている。
俺は子供と目を合わせないように、そっと視線を逸らす。その時、本当にかすかにだが懐かしい化粧品の香りがした。
そういえば、祖母は心配性だったな、と思い出す。記憶の中の祖母はひとりだけの孫である俺を大層可愛がってくれていた。
あのしっとりと柔らかな手のひらの感触は失ってしまったが、祖母は今でも、俺が向こう側の連中に魅入られないように俺の目を塞いでくれているのだろう。
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