コメディ・日常
夜行列車に揺られて
992文字
約2分で読了
Day 3: チョコレートの匂い / 夜行列車
ほんのりと甘いチョコレートの香りがした。
それは遠い日の記憶へ私を巻き戻してくれる。
10代の後半だった。
私はカバンを一つ持って夜行列車に飛び乗った。
それは意を決しての家出だった。
当時行き場所なんて決めていなかった。
右のポケットには片道切符。
左のポケットにチョコレート。
去ってゆく街を見ながら甘くて苦いチョコレートをかじった。
夕食はそれだけ。
不安な気持ちよりもやっとここから出て行くという期待のようなものが胸に渦巻いていた。
甘さと苦さが入り混じる10代。
青春なんて言葉は分からない。大人になろうと目いっぱい背伸びしていたように思う。
当然だが夕食はチョコレートだけでは物足りずお腹が空いて眠れない。窓の外をぼんやりと眺めていた。
雨だれの音がする。滲んでゆく風景。
きっともう故郷には帰らない。
そんな決意が胸の中に重くのしかかっていた。
空っぽになってしまった左のポケットにはそれでも甘いチョコレートの匂いが漂っていた。
不安な気持ちを抑えるために右ポケットの切符を握りしめる。
電車の揺れが心地よい。
そういえば電車の揺れというのは母親の体内と同じリズムらしい。
母体帰還
私はもう一度ここから生まれてくるのだと思った。
母は私が幼い頃に亡くなってしまい、もう記憶にはない。
父が男手1つで育ててくれたわけだが、やはり父親というのはどうにも子育てに関しては不器用である。
それが分かっていたけれどやはり衝突してしまう。
家を出たのは結局のところ、そういう理由だろう。
写真の中でしか知らない母は私のことをどう思っているだろう。
私は母のような人間にはきっとなれない。
どんな人だったのか全く知らないけど、なんとなくそんな思いがあった。
心地よいリズムの中で毛布に包まって滲んだ風景を眺める。
光の粒が溶けてゆく。
「危ないから走っちゃダメよ」
「すごいね。上手にお絵かきできたね」
「ねんねんころりよ♬こーろりよ♪」
暖かな光の中で母の声がする。
聞いたことがないはずなのに、それは母の声だと私にはわかる。
眩しい光に包まれて、抱きしめられて私は目を開いた。
夜明けとともに駅は終着点へ。
いつのまにか夢を見ていたらしい。
夢の中の母は優しく私を抱きしめてくれた。
眩しい光と雨上がりの澄み切った空。
あの日私は新しい世界へと飛び出した。
チョコレートの匂いと夜の闇と、眩しい朝。
今もあの日のことを思い出す。
\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ