SF・ファンタジー

毎晩、星が好きな王子を抱っこしてます

3,499文字 約7分で読了
月は形を変える。それは月を太陽が照らしているから、と学んだ時は嬉しかった。  暗い夜に浮かぶあの大きな満月は、一人ぼっちではない。  太陽と触れ合っているんだ。  トーマは大きな寝台から出る。か細い足首は、春の夜でも冷えた。眠ろうとしていた体を動かすと咳が出た。  白い寝巻きの襟を立てて喉を守りながら、バルコニーへと歩く。  重いカーテンの隙間に身をすべらせて、両手でバルコニーの扉を開ける。見上げた正面に白い満月があった。  トーマの読み通り、今夜は月が近い。  円形のバルコニーの白い手すりに、トーマは身を乗り出して手を伸ばす。  十三歳の第四王子のトーマは権力にも贅沢にも興味がない。  ひたすらに夜空へ惹きつけられている。  北極星をめぐる星々の物語が、毎夜、楽しみだ。  もう少し、もう少しだけ、きらめく星に近づけたなら。  トーマはかかとを浮かせて、身を乗り出す。  夜風が寝巻きの裾をひるがえした。それに驚いたように胸が苦しくなり、激しい咳が出た。喉がひゅーひゅーと音を立てて、肩が上下する。  手すりにしがみついていた力が抜けた。  トーマの軽い体は、バルコニーから落ちる。  息が苦しくて悲鳴も出ない。頬を切るような風と浮遊で、死を覚悟して強く目を閉じた。  頭を地面に打ちつけて死ぬんだ、と指先が冷たくなった。  トーマの体は暖かい弾力の中に、落ちた。 「あらまぁ、トーマ王子様が落っこちてきたわ」  明るい声がして、おそるおそる目を開ける。  短髪の赤髪に、真っ黒な大きい瞳、肩幅が広い。  メイドのシシリーだ。 「よかった、ここで寝てて。トーマ王子様、また夜空をご覧になっていたのね」  シシリーがここで、と言ったのは王宮内の木のベンチだ。  彼女は変わったメイドだ。女の人なのに男の人みたいに大きくて、たくましい。跳躍魔術が得意で、重い荷物を抱えて飛び回っている。  彼女みたいに強い体に生まれてきたかった、とうらやましくて、多くのメイドの中でも印象に残っていた。 「ありがとう、助けてくれて…………」 「助けられてよかったです」  シシリーはトーマを幼い子供のように抱っこしている。  トーマは恥ずかしくなって、うつむく。 「本当にありがとう。もう大丈夫だから、降ろしてくれない?」 「いいえ、このまま寝室までお送りしますわ」  シシリーが地面を蹴って、飛び上がる。視界がいきなり動いた。さっきとは逆だ。上昇していく感覚は胃がふっと浮くような高揚感がある。  あっという間に寝室のバルコニーまで辿りついたが、シシリーはトーマを降ろさなかった。 「もっと上を見たくありませんか?  今夜は月が近いです」  トーマはシシリーの首に腕をまわしていた。  きらきらしている瞳を見つめて、うなずく。  すると待っていました、とばかりにシシリーはバルコニーからさらに高く飛んだ。  物見の塔より高い場所から、トーマはシシリーの腕の中で夜空を見上げた。 「わぁ……」  感嘆の声が漏れる。  バルコニーから見た月は平面に見えたが、今は丸い惑星だとわかる。北極星はいつもと同じ場所で輝いていて、小さな星の瞬きを一つ二つと数える。 「空って、丸いんだね」 「あら、そうですか。それはあらまぁ」  シシリーが笑う。 「新しい発見です。トーマ王子様は天文学にお詳しいのでしょう。なぜ、月は時間によって移動するのですか?」 「それは、地球は一日に一回、西から東へ回っているからだよ」 「地球が回っているのですか」  シシリーが驚いた声をあげた。 「月も動いているんだよ。月は地球の周りを回っているから。この世界は、そうやって動き続けているんだ」 「ふふ、それはわかります。だって人は毎日、変わっていきますから。同じ日なんて、一日もない」  そう答えるシシリーが、トーマには眩しかった。彼女は一日中、城の中で動き回って働いている。トーマは第四王子――いてもいなくても良い王子――として大人しく城の中で過ごしている。 「さて、もう夜も遅いです。また、明日にしましょう」  シシリーがゆっくりと降下する。 「…………明日も、来てくれるの?」 「えぇ、もちろん。トーマ王子様が今夜みたいに、落ちてしまったら大変ですもの」 「ありがとう! 僕、すごく嬉しい」  思わずシシリーの首に抱きついてしまって、トーマは頬を赤くしてパッと離れる。シシリーは大きいけど、まだ十五歳でトーマと歳が変わらない少女だ。 「では、おやすみなさい」 「おやすみなさい」  寝台に入ると、トーマは久しぶりにぐっすり眠ることができた。  それから毎晩、夜の十時になるとシシリーがバルコニーへ飛んできた。少し恥ずかしいけど夜空に近づきたくて、彼女に抱っこしてもらう。 「地球の回転する軸を、北の方へずっと伸ばしていくと、北極星の近くなんだ」  トーマは人差し指を立てて、その周りを片手で回してみせた。 「こっちの指が地球の軸。地球が回っても、軸の向いてる先はほとんど変わらない。だから、北極星は同じ場所にいて、その周りを月や星が回っているように見えるんだよ」 「夜空にも変わらないことがあるんですよ」 「ううん、北極星だって、宇宙の中を動いているよ。永遠に北にいる訳ではないかもしれない。でも、北極星はいつも同じ場所にいてくれるから…………僕は嬉しいんだ。北極星を見ると、悲しいのが少しなくなるから」 「そうですね、星が輝いているのを見ると、安心します。私は勉学は不得意ですが、トーマ王子様のお話はとてもわかりやすいです」 「僕なんて、まだまだだよ…………外に行けたらな。この国にはすごい天文学の先生がたくさんいるんだ。夜空を観測して、記録をし、人はそうやって天体を知っていった」  トーマは視線を下に向ける。まだ明かりがついている家を見ると、学者が今夜の夜空を記録しているように思えた。  風が吹いて、トーマの胸を刺激する。体を折り曲げて激しく咳き込む。シシリーがゆっくり降下してバルコニーに戻るが、トーマの激しい呼吸は治らなかった。 「大変、すごい熱だわ!」  シシリーがトーマの額に手を当てて、寝室を飛び出して行った。トーマは寝台で涙をこぼした。  翌日、医者から肺の病が重くなっていることを告げられた。 「安静にしているように。夜風に当たってはいけませんよ」 「どうせ、死ぬんでしょう! わかります…………僕の肺は病でどんどん悪くなっていく。安静になんて………そんなこと!」  トーマが声を荒げると、母が口を手で覆い、悲しい顔をした。 「僕は、このまま寝たきりで、死にたくありません」 「そう考えるのはおやめになってください。とにかく、安静に」  医師は機械的にそう言って席を立つ。  トーマには泣き叫ぶ体力さえなかった。重い体をベッドに沈めて、浅い呼吸をして涙を流す。 「トーマ、悲しいことは言わないで。きっとよくなるから」  母が頭を撫でてくれる。王宮で自分に関心を寄せてくれるのは、母だけだ。父王は体が弱く、帝王学ではなく天文学に興味を示したトーマを見限っていた。もう父王の顔も忘れかけている。 「…………お母様、お願いがあります」  トーマは、シシリーが夜空を見せてくれることを打ち明けた。  バルコニーから落ちたことを聞いて眉を寄せた母だったが、シシリーが助けてくれたこと、トーマがシシリーに見せてもらった夜空がいかに素晴らしいか話すと、うなずいてくれた。  短い時間なら、シシリーと夜空を見に行ってもいいと、許してくれた。  シシリーは心配そうだった。シルクの靴下を履かされ、ブランケットに包みこまれた。  灰色の雲が月を隠す夜も、しとしと雨が降る夜もシシリーはトーマを抱いて跳躍した。トーマの体はシシリーの腕よりも細くなり、目を開けている時間も日に日に少なくなった。 「今日も、北極星は輝いているね」  トーマは円盤状の天文器具、アストロラーベの標準器をのぞいた。咳が出て、力がなくなり、すぐに下ろす。肺から濁った音がする。 「僕が死んでも、北極星は輝き続けてくれる…………それだけでも知ることができて…………天文を学んでよかった」 「そんな寂しいこと…………おっしゃらないで」  シシリーはトーマを抱きしめて泣いた。 「覚えていてね、月は満ち欠け、星々は巡る。そう語った僕のことを」  トーマの視界は白くなっていく。シシリーの首から手が垂れ下がる。 「…………君と出会えて、よかった」 「トーマ!」  シシリーの熱い体の中で、トーマは永遠の眠りについた。      ※  シシリーは夜空を飛ぶ。  アストロラーベを天にかざし、標準器をのぞく。 「トーマ王子様、今日の北極星は三十五度ですよ」  シシリーは心の中にいるトーマに話しかける。 「こうして星の高さを測ると、一つ一つの星が特別だと感じられます」  シシリーは今も腕にトーマを抱いて、北極星を見つめている。
2026/10/08 ・ 👁️ 50回 ・ 💬 1件

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読者の感想・応援メッセージ

しとえ
とても胸にジーンと響きました。良いお話をありがとうございます良いお話をありがとうございます
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