コメディ・日常
日曜の朝市と来週の樽
2,681文字
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午前五時半のやまぶき市は、まだ市場ではなかった。
川沿いの細い通りに軽トラックが何台も入り、荷台から折り畳みの台や木箱が下ろされている。水を打たれた石畳の上では、野菜、干物、花、漬物、それぞれの屋台が夜明け前の暗がりから少しずつ形になっていた。
日曜の朝六時から十時まで。
その四時間だけ、この通りは朝市になる。
玲奈は眠い目をこすりながら、母から聞いた場所を探した。
漬物屋〈たから屋〉は、通りの中ほどにあった。
生成りの布を屋根代わりに張った小さな屋台で、売り台の後ろに大小の木樽が並んでいる。
大きな樽を軽トラックから降ろしていたのは、腰の曲がった店主ではなかった。隣の花屋の青年と、向かいの干物屋の主人が二人がかりで運び終えたところだった。
「助かったよ」
小柄な老婦人が言うと、二人は慣れた様子で自分たちの屋台へ戻っていった。
朝市では、重い荷物の上げ下ろしを近くの店同士で手伝うらしい。
「遅い」
老婦人が玲奈を見た。
「五時半って聞いてましたけど」
「五時半に来たら、五時半から働けんでしょうが」
この人がキヨらしい。
昨日、母から電話があった。
キヨが腰を傷めて、満杯の樽や重石を持てなくなった。朝市仲間が搬入までは手伝ってくれるが、みんな自分の屋台がある。営業時間中の力仕事と、終わったあとの片づけだけでも手を貸してほしい。
一日でいいから行ってくれないか。
玲奈は最初、断った。繁忙期が続いていたし、日曜くらい昼まで寝たかった。
けれど「重いものだけでいいから」と言われ、結局ここにいる。
本当に一日だけ。
そう決めていた。
キヨは紺色のエプロンを渡し、樽を指した。
「その蓋、開けて。中は触らんでよ」
玲奈が蓋を外しているあいだにも、キヨは浅漬けを入れた小さな容器を売り台へ並べていく。
軽いものなら自分で動かせるらしい。
「こっちの樽、下に入れて」
「これですね」
玲奈が抱えると、ずしりと腕に重さがかかった。
なるほど、これを腰の悪い老人に持たせるわけにはいかない。
樽を売り台の下へ収めているあいだにも、通りはどんどん賑やかになった。
向かいでは味噌汁の鍋から湯気が立ち、隣の花屋では青年がバケツいっぱいの菊を並べている。干物屋の網には銀色の魚が一列に寝かされていた。
六時になる頃には、さっきまで荷物ばかりだった石畳を人が歩き始めた。
「あれ、キヨさん。今日は助手つき?」
最初の客が玲奈を見て笑った。
「一日だけ」
キヨが答える。
玲奈はまだ袋の置き場所すら覚えていなかった。
客は胡瓜を二本頼んだ。
三種類あるうちのどれを取ればいいのかわからず手を止めていると、キヨが浅く漬かったものを選んだ。
「あんた昨日、飲んだろ」
客は驚いた顔をして、それから笑った。
次の客には別の容器から茄子を出した。
その次には、少し酸味の進んだ白菜。
玲奈には違いがよくわからない。
漬物なんて、定食の端に二切れついているものだと思っていた。
あっても困らない。
なくても、たぶん困らない。
七時を少し回った頃、背広姿の男が屋台の前で足を止めた。
「おはよう、キヨさん」
「今日は早いね、佐伯さん」
名前はそこで初めて知った。
キヨは注文を聞く前に、白菜を取り出した。
「いつもの、二百で」
玲奈が量り、キヨが一枚だけ足して包む。
佐伯は代金を置くと、古い木の看板や樽を眺めた。
「今日もまだ、ここにあるな」
「朝から縁起でもない」
キヨはそう返しただけだった。
玲奈には、妙な挨拶にしか聞こえなかった。
しばらくして、キヨが胡瓜を一本差し出した。
「朝飯、食べた?」
玲奈が首を振ると、そのまま持たされた。
かじる。
ぱき、と小気味いい音がした。
皮は思ったより硬い。
その直後に冷たい水気と塩気が広がって、二度、三度と噛むうちに、最初にはわからなかったぬかの匂いが鼻へ抜けた。
「……白いご飯がほしいです」
「味噌汁なら向かい」
隣の花屋の青年が笑った。
玲奈ももう一口かじった。
九時前、人の流れが少し緩くなった。
キヨが腰に手を当て、屋台の後ろに置かれた大きな樽を指した。
「今度はあれ」
蓋の上には重石が載っていた。
玲奈が両手で持ち上げる。
思った以上に重い。
隣の花屋の青年や、向かいの干物屋がいつの間にかこちらを見ていた。
「樽開きです」
青年が言った。
その日最初に開ける樽を、近くの屋台の人たちがなんとなく見守る。昔から続く習慣らしい。
玲奈は重石を脇へ置き、蓋を持ち上げた。
ぬかの匂いが、朝の空気へふわりと広がる。
「あ」
表面の一部が白っぽく見えた。
「キヨさん、これ大丈夫なんですか」
キヨは中を覗き込んだ。
「昨日も見た。今日はこれでええ」
そして樽に手を入れた。
「手ぇかけりゃええってもんでもないんよ」
取り出された白菜には、ぬかが葉の奥まで入り込んでいた。
切り分けられると、見ていた人たちが一切れずつ摘まんだ。
まだ早い、これくらいがいい、来週ならもっと酸っぱくなる。
それぞれ好き勝手に言って、自分の屋台へ戻っていく。
玲奈も一切れもらった。
朝に食べた胡瓜とは全然違った。
白菜の甘さのあとから酸味が来る。芯はまだ歯ごたえがあって、葉は柔らかい。
明日なら、また少し違うのだろう。
来週なら、もっと。
ふと、朝の佐伯の言葉を思い出した。
今日もまだ、ここにあるな。
玲奈は屋台を見た。
欠けた木の看板。
古い樽。
日に焼けた布。
日曜の朝にだけ現れて、十時になれば何もなかったように消える場所。
来週も同じ場所に同じ屋台が出る。
けれど、樽の中身は少しずつ変わっている。
「玲奈。白菜」
「あ、はい」
声をかけられ、玲奈は慌てて量りへ戻った。
十時になると、朝市はあっけなく終わった。
野菜の木箱が軽トラックへ戻され、干物の網が畳まれる。
花屋の青年が〈たから屋〉の布屋根を外すのを手伝い、干物屋の主人は空いた木箱を荷台へ運んでくれた。
玲奈は重石を持ち、売り台の下にあった樽を引き出す。
朝にはただの隣人だと思っていた人たちが、声を掛け合いながら、それぞれの屋台を少しずつ片づけていく。
誰か一人の店を手伝っているというより、この朝市そのものを畳んでいるように見えた。
最後にキヨが、売れ残った胡瓜を紙袋へ入れた。
「持って帰り」
「こんなに?」
「売れ残り」
紙袋を押しつけられる。
「もう来んでもええから」
玲奈は袋を抱えた。
来週の日曜は寝ていたい。
洗濯も溜まっている。
録画したままのドラマもある。
だから、「また来ます」とは言わなかった。
「来週、開ける樽は何ですか」
「白菜」
「今日も白菜でしたよね」
「違う白菜。食べりゃわかる」
布屋根のなくなった石畳に、朝より高くなった日が差していた。
玲奈は紙袋から胡瓜を一本取り出した。
かじる。
ぱき、と音がした。
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