コメディ・日常
音が鳴った
672文字
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駅前。雑然とした改札口から少し離れた路上で、ギターをかき鳴らしている男がいた。
微かなギターの音にふと仕事で疲れた足を止めてから、吸い寄せられるように男の元へ行く。彼は小さなアンプ一個を歩道に置き、ただただギターを弾いていた。乱れ舞うような手捌き、アンプから漏れ出る弾んだ音の連なり。気づけば、夢中になって彼のギターを聞いていた。
彼は、俺の存在に気づいていないみたいだった。ただ夢中で楽しそうにギターを弾いていた。ひたすら自分の音に塗れた世界に浸って、陶酔して、笑っていた。それを、俺はとくとくと胸を弾ませながら見つめる。
散々だった今日の出来事が、ギターの鋭い音の中に溶けていく。会社でミスをした事、上司から嫌味を言われた事、彼女に明後日のデートをドタキャンされた事。全部が、激しい音に飲まれていく。彼の紡ぐ音楽が俺の全てをうやむやにしてくれた。
演奏がひとしきり終わった頃。俺は彼に何か言おうか迷ったけど、ただ何も言わずに笑ってみせた。彼は夢中でギターを弾いていた時とは打って変わって、少し恥ずかしそうにはにかんで会釈をする。俺も軽く会釈をして、彼がギターをしまい出す前に改札口へ向かった。
しばらく電車に乗って、最寄り駅に着いてから一気に走り出す。寒空の下、冷たい空気を切り裂いて家までひたすら走った。頭の中は、刻まれた名も知らぬ音楽でいっぱいだ。
あんな風に、自由な世界を手に出来たら。音に出来たなら。世界はきっと、鮮やかなんだろう。
笑って走る。いつか俺も、この手で自由を奏でられたらいいなと思う。
鳴りやまない音楽を胸に、夜の住宅街を駆け抜けた。
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