ミステリー・サスペンス

嘘つきのマンデリン

2,805文字 約6分で読了
作者:繹尾ぴえん
 猛吹雪が、世界を白い絵の具で塗り潰したように視界を奪っていた。  吸い込む空気は冷たいを通り越して痛く、喉の奥をざらりと削っていく。膝まで沈む雪をかき分けながら進むうちに、指先の感覚はとうに消え、耳の奥では自分の鼓動だけが妙に大きく響いていた。  針葉樹の影に、ぼんやりとオレンジ色の光が滲む。  山小屋のような古い建物の前に立ち、凍りついた真鍮のドアノブに体重を預けて押し開けた。  重い扉がきしみ、カラン、と乾いたベルが鳴る。  吹雪の音が一瞬で遠ざかり、むせ返るほどの暖気が肌にまとわりついた。薪ストーブの爆ぜる音、柱時計の規則正しい刻音、壁際の本棚に並ぶ擦り切れた洋書。飴色のカウンターの奥では、くすんだ照明が柔らかい影を落としている。 「いらっしゃい」  低くよく響く声が、店の奥から届いた。  黒いタートルネックを着た大柄な男が、布巾でグラスを磨いている。探偵事務所を兼ねているというこの店のマスターだ。四十代半ばだろうか。整った顔立ちなのに、口元にはどこか人を食ったような皮肉めいた気配がある。  僕は雪のついたコートを脱ぎ、カウンターの端の丸椅子に腰を下ろした。  膝の上で組んだ両手が小刻みに震えているのは、寒さのせいではない。 「人を探してほしい」  自分でも驚くほど掠れた声が出た。  マスターは手を止めず、淡々とグラスを磨き続ける。 「雪山で遭難か」 「いや。街から突然消えた。僕の……大切な友人なんだ」  喉が乾いて、舌がうまく動かない。  吐き出そうとしているのは、氷のように固く冷たい嘘だ。自分さえ騙せるほどの、完璧な嘘。  マスターは磨き終えたグラスを頭上の棚に戻すと、無言で背を向けた。  棚の奥から、使い込まれた銅製のクラシックな手挽きミルを取り出す。  ホッパーに焦げ茶色の豆が流し込まれ、ハンドルがゆっくりと回された。  硬い豆が砕かれる低い振動が、静寂の落ちた店内に響き渡る。  外の風が、窓ガラスを鋭い爪で引っ掻くように鳴った。 「失踪はいつだ」 「十日前。急に連絡が途絶えた」 「警察は」 「行っていない。事情があって、表沙汰にできない。だからあんたに頼みに来た。腕がいいと聞いた」  嘘を重ねるたび、胃が鉛のように重くなる。背中を冷たい汗が伝い落ちる。  マスターは挽いた粉をドリッパーに移し、細口のケトルを火にかけた。 「あんた、手がひどく震えてる」  背を向けたまま、マスターがぽつりと言う。 「……外が、異常に寒いからだ」 「息も浅い。目が、さっきからドアと時計を往復している。何かに追われてる人間の目だ」  心臓が跳ねた。  僕は組んでいた手をほどき、膝に押し付ける。 「気のせいだ」  シューと、ケトルの湯が沸騰する音がした。  マスターは火を止め、温度計を差し込む。湯が落ち着くまでの十数秒、沈黙が店を満たした。  ストーブの爆ぜる音だけが、やけに鼓膜を打つ。  マスターが静かにケトルを傾けた。  糸のように細く、柔らかな弧を描く湯の筋が、ドリッパーの中心に落ちる。  挽きたての粉が湯を含み、琥珀色のガスを放ちながら美しいドーム状に膨れ上がった。濃密で、微かに焦げたような香りが一気に店内に立ち込める。  張り詰めた空気の中、立ち昇る細い湯気からどうしても目を逸らせない。カラカラに乾いた喉が、その匂いに当てられてピクリと動いた。 「人間は嘘をつくと、どこかに綻びが出る」  湯の滴る音と同じリズムで、マスターが言う。 「瞳孔、声の調子、筋肉の硬さ。外が異常に寒いにしては、あんたの体温は不自然なほど低い。血が内臓に集まってる証拠だ」 「何を言ってるのか、わからないな」 「そうか」  ドリッパーが外され、白い湯気を立てる黒い液体が、灰色の陶器のカップに注がれた。  マスターはソーサーにカップを乗せ、僕の目の前に音もなく滑らせた。 「これは特別なマンデリンだ」  マスターの墨色の瞳が、湯気越しに僕を射抜いた。 「嘘をついている人間が飲むと、泥のように苦く感じる」  僕は目の前のカップを見つめた。  波打つ漆黒の水面が、血の気を失った僕の歪んだ顔を映し出している。  嘘を見破る珈琲など、そんなものあるはずがない。  ただの三文芝居だ。ハッタリに決まっている。そう思いながら、震える手でカップを持ち上げる。  陶器の熱が、凍てついた皮膚を焼き切るように熱い。縁に唇を押し当て、少しだけ傾けた。真っ黒な液体が、舌の上を滑り落ちる。  ――苦い。  舌の根を鷲掴みにされるような、鋭い苦味。喉の奥が焼け焦げ、胃が縮む。  息が詰まった。  カチャリ。  手が滑り、カップがソーサーにぶつかって甲高い音を立てた。 「苦かったか」  逃げ場はない。  視界が歪み、喉の奥から黒い塊がせり上がる。ポケットの中のスマートフォンが、けたたましく振動しているような錯覚に襲われた。あの夜と同じだ。彼からの着信を告げる、無機質な振動音が耳の奥で鳴りやまない。 「……僕が、見捨てたんだ」  言葉ではなく、溶けた後悔がこぼれた。 「あいつは身に覚えのないことで叩かれてた。デマだ。僕は知ってた。無実だって。あいつが潔白だって。あの日、あの時間に、あいつが僕と一緒にいた証明を持っていたのは、僕だけだったんだ」  呼吸が乱れる。 「でも言えなかった。巻き込まれたくなかった。僕の人生が壊れるのが怖かった。だから黙った。あいつが一番助けを求めてた夜に、スマホの電源を切って、毛布にくるまって震えてた。着信を何度も、何度も、無視して……!」  止まらない。  頬を熱いものが幾筋も伝い落ちる。膝に置いた両手に、ポタポタと絶え間なく雫が落ちて、ズボンの生地に黒い染みを作っていった。  探してほしいんじゃない。  ただ、自分の目で、選択の結末を知るのが怖かっただけだ。  どれほど泣いただろう。  狂ったような動悸が、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。 「……珈琲が嘘を見破るわけないだろう」  マスターの声は、もう冷たくなかった。  顔を上げる。マスターはカウンターに両肘をつき、静かな瞳でこちらを見下ろしていた。 「ただの深煎りだ。あんたの脳が、罪悪感で味を歪めただけだ」  僕は目の前のカップを見下ろした。  黒い水面から立ち昇っていた湯気は、すでに消えかかっている。 「もう一度飲んでみろ。冷めた頃がちょうどいい」  言われるがまま、僕は再びカップの取っ手に指をかけた。  今度は震えなかった。  冷めかけた液体を口に含む。  先ほどの、舌を刺すような苦味はない。代わりに、熟れた果実のような、丸みを帯びた甘みと深いコクが、舌全体を優しく包み込んだ。  喉の奥を滑り落ちた液体が、胃の腑に仄かな熱を灯す。 「マンデリンは冷めるほど甘くなる。嘘が溶けたなら、なおさらだ」  マスターはコートを手に取った。 「行くぞ」 「どこへ」 「あんたの依頼だ。まずはスマホの電源を入れるところからだな」  扉が開く。  外は相変わらずの猛吹雪だったが、不思議と、さっきほどの絶望的な寒さは感じなかった。  口の中には、マンデリンの静かな甘みが残っている。  凍りついていた心臓が、ゆっくりと溶け始めていた。
2026/10/03 ・ 👁️ 67回 ・ 💬 2件

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読者の感想・応援メッセージ

けんたろ(ゲスト)
マンデリンをチョイスする所がにくいです。
コーヒー好きならではの表現で・・・私もマンデリン大好きなので「やられた感」
でいっぱいです!私もマンデリン淹れますww
珈琲時間
「舌の根を鷲掴みにされるような〜」
痺れました。
ちょっと珈琲淹れてきます。
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