その他

下には下がいる!!

2,711文字 約6分で読了
作者:甘駄悠喜
 今から僕は、他人を見下す。  気分が悪いときは、自分よりも下の人間を見ると良い、と誰かが言っていた。多分、そいつは性格が悪い。  今、僕はその性格が悪い人間に成り下がろうとしている。なぜか。そう問うやつには中指を立てたい気分だ。理由を言っても適当な相槌しか打たないくせに、無駄に人の奥底を知ろうとする無責任な奴らは死んでしまえば良い。そうなりゃ、僕のこの鬱屈な気分は少し晴れる。  お察しの通り、僕は気分が悪い。とても、だ。理由を話す気にはならないが、凶悪殺人犯と小一時間談笑できるほど苛ついている、と言えば少しは察していただけるだろうか。    この気分を少しでも晴らそうと、僕は商店街へと歩みを進めた。もちろん、そこで何かを買うわけではない。目的地は商店街の外れにある狭い路地、だ。  昔、自分だけの秘密基地を作ろうと、この辺りを歩き回っていたことがある。そのときに偶然見つけたのが、汚いおっさんだ。おっさんは地面に敷いた薄い段ボールに寝転がり、萎れた煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。あの時の香りを思い出すだけで、不思議と気分が高揚してくる。子供ながらに分かった。この人は自分より圧倒的に下の存在だと。そしてこの関係が崩れることは、今後起こり得ないだろう、と。  きっとあのおっさんは、僕を見るなり金をせびってくるだろう。それか、無理矢理にでも奪いにくるかもしれない。今の自分よりも下の存在なのだから、もしかしたら惨めったらしく媚を売ってくるかも。  どの想像をしても、不思議と心臓が激しく脈打ってくる。僕に必要な存在は暗がりから救い出してくれるヒーローではない。僕がまだ堕ちきっていないと教えてくれる、最底辺の人間だ。  商店街をするりと抜け、例の路地へ。  歩みを進めるにつれて、あの香りが漂ってくる。  疲れきった煙草の匂いが、  全く美味そうではない缶コーヒーの香りが、  そしてなにより――汚いおっさん自体から発せられる、鬱屈とした臭いが。  それらの香りは、僕の鼻口を侵してくる。酷い匂いだ。だが、今僕はそれを求めている。終わりきった人間の醸し出す終わりきった匂いを、たまらなく求めている。  曲がり角を曲がった先に、そいつはいた。  酷使された段ボール。  うざったい煙草の匂い。  安っぽい缶コーヒーの作られた香り。  そして――汚い、おっさん。  おっさんはこちらを見るなり、「ぁ?」と、底辺の染みついた声を発した。期待通りの姿に、自然と頬が釣り上がっていくのを感じる。  「誰だアンタ?」  おっさんは、僕のことを覚えていないようだった。当たり前だ。あのときから十年は過ぎている。おっさんも記憶の中のものより随分と老けていた。  「大丈夫、別にお前は知らなくて良いから」  指を前に突き出し、僕は告げた。おっさんはぽりぽりと頭を掻き、不思議そうに首を捻っている。  「なんでこんなとこに来たんだ? 迷子か?」  「ちげえよ。あんたに会いに来たんだ」  おっさんが目を見開いた。俺に会いにくるなんてどんな物好きだ? とでも言いたげな顔をしている。  「ほお……そりゃ、なんでまた?」  「見下しに来たんだ、アンタを」  言っていて、吹き出しそうになる。その言葉はあまりにも下卑ていた。だがまあ、こんな奴に何を言おうが罰は当たらないだろう。  「そうかい」  おっさんは驚くでもなく、怒りを露わにするでもなく、ただ手元の缶コーヒーをあおった。  「……は? それだけ?」  「それだけって?」  ゆったりと、おっさんは余裕そうにこちらを見つめた。こちらの全てを見透かしているような、ねちっこい目線。経験を積んできた、大人の眼光。  「もっと……もっと、あるだろ! 歳離れてるガキに見下されようとしてんだぞ!?」  「それがどうしたんだ。今更どれだけ馬鹿にされようが変わらんさ。もう慣れたよ」  その言葉に、少し安堵した。期待していた反応ではなかったが、やはりこいつは終わっている。目的自体は果たせる。  「……あんたさ、恥ずかしくないのか? 大人のくせして、こんなとこで一人でゴロゴロして! どうせ仕事もしてないんだろ? ずっとさ! 正直、見てるだけで反吐が出るね!」  なら見なけりゃ良いだろう、そう囁いてくる心中は無視して、ポケットからスマホを取り出す。  そして、カメラのシャッターを切る。  「あんたのこと、晒してやるよ! 見た奴らの反応が楽しみだね! 友達と一緒に笑い飛ばしてやる!」  友達なんか、いないのに。  「ネットにも載せてやる! あんたが俺から金奪おうとしてきたってな! 叩かれるぜ、あんた! 『高校生から金奪うなんてクズだな。死ねば良いのに』そんなコメントが幾つも来る! それが来るたびに見せに行ってやるよ、アンタがどんだけ社会に必要とされてないか思い知らせてやる」  一番みんなに必要とされてないのは、僕の方だ。   「そんで……そんで、アンタに殴られたって、警察に通報してやるよ! この傷をアンタのせいってことにしてやる!」  そんなことして何になるのだ。僕を殴った奴らにはなんのお咎めもないじゃないか。  「どうだ! 覚悟しろよ! 今言ったこと、全部やってやるからな!」  それをして、何になるというのだろう。    気分は晴れるだろうか?  晴れないだろう。人を不幸にして幸せになんかなれない。  これからの生活は変わるだろうか?  変わるわけがないだろう。原因はこの人じゃない。クラスの奴らと……僕自身だ。  こんなことをして、何になるのだろうか?  ……自分が、浮浪者よりも下の存在だということが証明される。証明、されてしまう。  嫌だ。だが、事実だ。僕は今、この地球上で一番下の人間だ。それは紛れもない事実で、多分、今後一生変わることはない。  「辛かったね」  少し前まで見下していた人間に、ずっと、ずっと欲しかった言葉を言われてしまった。改善案を提示するでも、適当に相槌を打つでもない。ただ、同意してくれる。寄り添ってくれる。こんな、最底辺のクズな野郎に。  「君に何があったのかは知らないが、私は君の気持ちがわかると思う。何があったか、教えてくれないか?」  「なんで、俺みたいな底辺野郎に優しくするんだよ。俺、アンタに酷いこと……」  「私みたいになってほしくないからなぁ。それに、私はもう戻れないが……君ならまだ、這い上がれるだろ?」  喉の塊を呑み込んだ。多分、今僕は酷い顔をしている。涙と鼻水で、汚れきっている。でも、だらしなく笑っている。  「さて……。話そうじゃないか、同じ底辺同士」  この人は、僕を同じレベルで扱ってくれている。最底辺の僕を、あなたと同じ程度だと言ってくれている。全くそんなことないと言うのに。  近くに寄ると、煙草の匂いがした。それと、安っぽい缶コーヒーの香り。そして、人生の年輪を刻んでいる、かっこいい大人の香りが。
2026/10/09 ・ 👁️ 27回 ・ 💬 0件

\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ

まだ感想はありません。

0 / 1000文字