コメディ・日常

潮風の縫い目

2,372文字 約5分で読了
作者:TakaTuki
 今祇島(いまかみじま)の港では、ロープが岸壁を擦る音がした。  美咲はフェリーを降り、レモン畑の続く坂を歩いた。  三日間の休暇を取って島へ来た。休み明けには上司との面談がある。退職の意思を伝えるつもりだったが、何から話せばいいのか、まだ決められずにいた。  今祇島を選んだのは、以前、雑誌で見た写真を覚えていたからだ。港を見下ろす斜面にレモン畑が広がっていた。  白壁の家々の軒先には小魚を干す網が吊られ、風が吹くたび、洗濯物と一緒に揺れている。  坂の途中に「帆布工房」と書かれた木札があった。  開いた扉から覗くと、若い女性がミシンを踏んでいた。作業台には、色褪せた青や生成りの布が積まれている。端には小さな木製の名札が置かれていた。 「見てもいいですか」 「どうぞ。散らかってますけど」  女性はミシンを止め、椅子から立ち上がった。  棚には大小の鞄が並んでいた。美咲は青い手提げを手に取った。持ち手の下に、不揃いな縫い目がある。 「ここ、直してあるんですね」 「船に使ってた頃の修繕跡です。漁師さんが縫ったんですよ」 女性は作業台から布を一枚持ってきた。 「これは三十年くらい使われた帆。風を受ける場所によって、色の抜け方が違うんです」  広げられた布には、ところどころ濃い青が残っていた。端には白い糸で縫い合わせた跡があり、その上から別の糸で縫い直してある。 「何度も直したんですね」 「ええ。破れそうなところを先に補強したり、形を変えたり。最後は帆として使えなくなって、ここに来たんです」  美咲は布の端を見た。縫い目の途中で糸の色が変わっている。  自分の鞄に目を落とした。  角の革が剥がれ、ファスナーも少し渋い。就職した年に買ったもので、毎日の通勤に使っていた。旅行前、新しいものを買おうと店に寄ったが、いくつか手に取っただけで帰ってきた。  内ポケットには、退職願の下書きが入っている。 「古いものって、どこまで使えるんでしょう」 「さあ。使う人が、もういいかなって思うまで?」  女性は笑って、布を畳んだ。  窓の外を、軽トラックがゆっくり通った。荷台には黄色いレモンが山積みだった。 「でも、直してもまた壊れること、ありますよね」 「ありますよ。直さないほうがいいものもありますし」  女性は美咲の鞄に目を向けた。 「その鞄、持ち手だけなら直せそうですよ」  美咲は鞄を差し出した。  女性は革の付け根を確かめ、指で軽く引っ張った。 「ここが弱くなってますね。革を全部替えることもできますけど、布を重ねたほうが丈夫になると思います」 「元の持ち手とは、違う感じになりますか」 「なりますね。色も、ぴったり同じにはできないです」  美咲は持ち手を見た。革の端が細かくひび割れていた。 「それでお願いします」  女性は奥から生成りの布を持ってきた。厚みを確かめ、裁ちばさみで細長く切る。 「少し時間がかかりますけど、大丈夫ですか」 「急いでないので」 「じゃあ、そこで待っててください」  女性は椅子に座り、ミシンを踏み始めた。  針が布を通るたび、短い音が続いた。  美咲は棚の鞄を眺めながら待った。作業台の端に置かれた名札には、「島野 海緒」と書かれていた。  海緒(みお)は布の向きを変え、縫い目を確かめている。  壁には古い漁船の写真が飾られていた。白い帆を張った船が、港の外へ向かっている。 「あの船の帆も、ここにあるんですか」  美咲が尋ねると、海緒はミシンを止めて写真を見た。 「ありますよ。今は小さい鞄になってますけど」 「船は?」 「もうないんです。だいぶ前に解体したそうで」  海緒は再びミシンを動かした。 「船に乗ってた人が、ときどき鞄を見に来るんですよ。自分が縫ったところが残ってるかって」 「残ってるんですか」 「ええ。そこを切らずに作った鞄もありますから」  海緒は針の位置を確かめ、布の向きを変えた。  美咲はもう一度、壁の写真を見た。  職場では、入社した頃と仕事の内容がずいぶん変わっていた。部署が移り、担当する業務も増えた。  以前は楽しみにしていた仕事だった。  いつから辞めたいと思うようになったのか、はっきりしない。 「この鞄も、船に乗ってた頃とはずいぶん違うんでしょうね」  美咲が言うと、海緒は写真に目をやった。 「そうですね。帆だった頃は、もっと大きかったでしょうし」 「小さくなっちゃったんですね」 「ええ。でも、鞄ならこれくらいが使いやすいですから」  海緒は布の端を縫い合わせた。  しばらくして、ミシンの音が止まった。  海緒は持ち手を裏返し、縫い目を指で押さえた。余った糸を切り、もう一度、革の付け根を確かめる。 「できました」  鞄には生成りの布で補強された持ち手がついていた。元の革は両端に残り、真ん中だけが新しい布に覆われている。 「色、合わなかったかな」  海緒が鞄を持ち上げて言った。  美咲は受け取り、肩に掛けてみた。  以前より、持ち手が少し太くなっている。肩に当たる布は柔らかかった。 「ううん。気に入りました」  海緒は笑った。  帰り際、美咲は棚にあった青い手提げをもう一度見た。漁師が縫ったという不揃いな縫い目は、そのまま残っている。 「また来ます」 「はい。今度はゆっくり見ていってください」  美咲は工房を出た。  坂を下りる途中、鞄の持ち手を何度か握り直した。生成りの布はまだ硬く、手のひらに馴染んでいない。  港に着くと、フェリーの乗船が始まっていた。  美咲は鞄から財布を取り出した。そのとき、内ポケットに入れていた紙が指に触れた。  退職願の下書きだった。  一度取り出しかけたが、財布を戻すときに、紙も奥へ押し込んだ。  帰りのフェリーで、美咲は鞄を膝に置いた。  青い海の向こうで、島が少しずつ小さくなる。  明後日には上司との面談がある。何を話すか、まだ決めていなかった。  窓から差し込む光が、生成りの布を照らしていた。  鞄の持ち手を指でなぞると、縫い目が一つだけ曲がっていた。  美咲はそこを、何度も撫でた。
2026/10/12 ・ 👁️ 56回 ・ 💬 0件

\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ

まだ感想はありません。

0 / 1000文字